穂高神社 歴史 創建
創建は不詳。当地は安曇郡(あづみぐん)の郡域にあり、定着した安曇氏によって当郡が建郡されたと見られている。そしてその安曇氏によって祖神が祀られたのが創祀とされる。安曇氏とは海人の一族で、福岡県 志賀島(しかのしま)の志賀海神社(しかうみじんじゃ)が発祥地とされる。
安曇氏は北九州を中心として栄え、その活動範囲を東方へも広げていったとされる。当郡への定着は、信濃における部民制や当地の古墳の展開から6世紀代と推定されている。その要因には蝦夷地域開拓の兵站基地として、ヤマト王権からの派遣が考えられている。安曇郡の式内社には他に川会神社(かわあいじんじゃ)があるが、こちらでも安曇氏系の綿津見神が祭神とされている。穂高神社の西方には多くの古墳が築かれているが、穂高神社付近は神域として避けられたと考えられ、穂高神社一帯が勢力の中心地域であったと見られている。
なお当郡における安曇氏の初見は、正倉院宝物の布袴(ほうこ)にある天平宝字8年(764年)の墨書である。ただしここには「安曇部」の記載しかないため、あくまでも安曇氏の部曲(かきべ、ぶきょく)が当地に設置されたに過ぎないという考えもある。
※部曲(かきべ、ぶきょく)
古代の中国、朝鮮、日本の私有民や私兵などの身分のこと。日本では民部とも書く。中国が起源で、賤民であり、隷属的集団。