弟橘媛 記紀の弟橘媛(弟橘比売命) ②
『古事記』は、焼津(やいづ)で相武(さがむ)国造にだまされ火攻めにあい、倭比売命(やまとひめのみこと)より賜った草薙剣(くさなぎのつるぎ)によって難を逃れた倭建命が走水海に至った時、海は荒れ狂い先に進むことが不可能になった。海神の怒りを解くため、弟橘比売命は「私は夫である皇子の身に替わって海の中に入ります。どうぞ皇子の東征を護らせ給え」と念じ、浪の上に菅畳八重、皮畳八重、絹畳八重を敷いて、その上に座って海に下りた。すると波が穏やかになり、船を進めることが可能になったとする。
そこより入り幸でまして、走水海を渡りたまひし時、その渡の神浪を興し、船を廻らして得進み渡りたまはざりき。こにその后、名は弟橘比売命白したまひしく、「妾御子に易りて海の中に入らむ。御子は遣はさえし政遂げて復奏したまふべし」とまをしたまひて、海に入りたまはむとする時に、菅畳八重・皮畳八重・絹畳八重を波の上に敷きて、その上に下りましき。是に其の暴自ら伏ぎて、御船得進みき。
ここに其の后歌曰ひまひしく、
· さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
とうたひたまひき。かれ、七日の後、その后の御櫛海辺に依りき。すなわちその櫛を取りて、御陵を作りて治め置きき。
よんだ和歌は「相武の野に燃え立つ火の中で、わたしの心配をしてくださった貴方」という意味である。相武国造にだまされ、火攻めにあった時のことを言っている『古事記』にのみ存在する歌である。倭建命に対する感謝の気持ちがよく表れている。倭建命の「吾妻はや」という言葉とあわせると、ふたりは固い絆で結ばれていたことがわかる。また、彼女が持っていた櫛は、7日後、海岸に流れ着いた。その櫛を取って御陵を作り治めたのが橘樹神社の由来ともされている。
弟橘媛を忘れられない日本武尊は、『日本書紀』では碓日の嶺(うすいのみね)、『古事記』によれば足柄(あしがら)の坂本で、「吾妻はや」と嘆いた。日本の東部を「あずま」と呼ぶのは、この古事にちなむという。いわゆる「地名起源説話」である。