河口浅間神社 歴史 創建
当社は貞観6年(864年)に始まった富士山の噴火鎮祭のため、貞観7年(865年)に浅間神を奉斎したのが始まりという。
『日本三代実録』によると、貞観6年(864年)に富士山の貞観大噴火が始まって大被害が発生し、噴火により八代郡(やつしろぐん)の本栖海(本栖湖。もとすこ)と剗の海(せのうみ)が埋没したという。そしてこれが駿河国浅間名神(現・富士山本宮浅間大社)の祭祀怠慢とされ、甲斐国でも浅間神を祭祀するべきこととなった。翌貞観7年(865年)、甲斐国八代郡家の南に浅間明神の祠が祀られ官社に列したと記す。また、平安時代中期の『延喜式神名帳』には名神大社として「甲斐国八代郡 浅間神社」の記載がある。
これらの記載に対して、江戸時代の『大日本史』や『甲斐国志』(かいこくし)などにより、古くから当社がその論社として論じられてきた。その中で当地は現在都留郡(つるぐん)であるが、当時は八代郡に属したと論じられている。ただし、もう1つの有力な論社として笛吹(ふえふき)市の浅間神社(あさまじんじゃ)もある。