伊古奈比咩命神社 概史 近世 


江戸時代に入り、慶長3年(1598年)7月の検地により社領は20石に減じた。慶長12年(1607年)、伊豆代官 大久保長安(おおくぼ ながやす/ちょうあん)からは鰐口(静岡県指定文化財)が寄進された。江戸時代を通じては、幕府が毎年八丈島に渡船を発するたびに、初穂米や祈願絵馬が奉納されていた。また、37の社家によって年間75度もの祭事が行われていたという。

江戸時代中期頃からは、社勢は著しく衰退した。伊古奈比咩命神社は幕府・郡代の崇敬に預かっていなかったこと、寛文7年(1667年)の検地によって境内地以外の社領は年貢地に改められたことにより、社家のほとんどが帰農して、ついには神主の原氏1家を残すのみとなった。代わってこの頃から禅福寺(ぜんぷくじ。別当寺)の社僧による支配が強くなって社家と争うようになり、その争いは明治の神仏分離まで続いた。



江戸時代後期には、そのような中で社人の藤井伊予(ふじい いよ。藤井昌幸(ふじい まさゆき))が復古運動を展開し、白川家平田篤胤伴信友との交わりの中で現在に見る由緒を構築した。復興に尽くした伊予は「道守神」(ちもりのかみ)と称され、現代まで讃えられている。