生國魂神社 概史 古代

 


文献上初見は『日本書紀孝徳天皇(在位:645年-654年)即位前紀で、その分注に孝徳天皇が神道を軽んじた例として「生国魂社」の樹を伐ったことが記されている。この伐採は、難波宮造営のためであったと考えられている。なお、それに先立つ『日本書紀』推古天皇6年(598年)条では、難波吉士磐金(なにわのきし いわかね)新羅から持ち帰った鵲(かささぎ)2羽を「難波杜」で飼わせたと見え、これを生國魂神社に比定する説もある。



新抄格勅符抄大同元年(806年)牒によれば、当時の「難波大神社」には神戸として摂津国から2戸が充てられていた。続けて国史では、天安3年(859年)1月に「難波生国魂神」の神階が従四位下勲八等に昇叙された旨や、同年(貞観元年)9月に「難波大社神」などに雨乞のための奉幣が遣わされた旨が記されている。



延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では摂津国東生郡(ひがしなりぐん。東成郡)に「難破坐生国咲国魂神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗」として、2座が名神大社に列するとともに、朝廷の月次祭相嘗祭新嘗祭では幣帛に預かる旨が記載されている。また『延喜式』では臨時祭祈雨神祭条や四時祭相嘗祭神条に「難波大社(難破大社)二座」として、臨時祭名神祭条には「難波生国魂神社二座」として記載される。



保安元年(1120年)の「摂津国正税帳案」によると租稲は80束であった。