生國魂神社 祭神 祭神について

 


祭神とする生島神足島神の2神は、『古事記』・『日本書紀』等の神話に記されない神々である。『延喜式』祝詞では生島御巫(いくしまのみかんなぎ)が生国・足国の2神を祀ると記されるほか、『延喜式』神名帳では生島巫が神祇官西院で生島神・足島神の2座を祀ると記されており、平安京の宮中で「生島巫(いくしまのみかんなぎ)」という専門の巫女により奉斎される重要な神々であった。その神格については、『古語拾遺』に「生島 是大八洲之霊、今生島巫所奉斎也」とあるように「大八州」(おおやしま)すなわち日本国土の神霊であるとも、またその国土にあるものを生成・充足する神々ともされる。



この生島神・足島神については、天皇の即位儀礼の1つである八十島祭(やそしままつり、八十嶋祭)との関わりが知られる。八十島祭は、新天皇による大嘗祭が行われた翌年、生島巫らが宮中から難波津(なにわつ)に赴き、天皇の衣の入った箱を揺り動かすなどの神事を行う祭りである。史料上は平安時代嘉祥3年(850年)から鎌倉時代元仁(げんにん)元年(1224年)まで、約400年間の実施が認められている。八十島祭の目的は諸説あるが、一般的には生島神・足島神が主神であったとされており、この2神を祀ることで大八州の神霊を天皇の体に取り入れ、天皇の国土支配権の裏付けを企図するものであったとされる。史料の上では八十島祭と生國魂神社の関係は明らかでないが、祭場・祭神からして生國魂神社の祭祀にも関わると考えられており、生國魂神社で行われていた「原」八十島祭が宮中に取り入れられて「宮廷」八十島祭になったとする説も挙げられている。



難波では、生國魂神社の類例として坐摩神社いかすりじんじゃ。大阪市中央区久太郎町、式内大社)の鎮座も知られる。坐摩神社祭神の座摩神(いかすりのかみ、ざまのかみ)は、宮中で「座摩巫」(いかすりのみかんなぎ)という専門の巫女により奉斎される重要な神々であった。後述のように生國魂神社は上町台地北端部(現在の大坂城の地)から現社地に鎮座したとされるが、この坐摩神社もかつては大坂城付近に鎮座したとされる。上町台地北端部では難波宮も営造されていることから、生國魂神社・坐摩神社とも難波宮との関わりが指摘される 。遡れば難波には上古天皇の宮の伝承が多く残され、下って平安時代に港湾としての難波の重要性が薄れても上述の八十島祭が代々続けられていたことから、宮中の座摩神・生島足島神自体が元来は難波地方の地主神(国魂)であったとする説や、それらの祭祀の淵源が5世紀河内王朝(かわちおうちょう)の時代まで遡ると見る説が挙げられている。以上のほか、『神社覈録(じんじゃかくろく)では祭神を「天活玉命」(あめのいくたまのみこと)とし、本居宣長は『古事記伝』において『先代旧事本紀』に見える十種神宝(とくさのかんだから)のうちの「生玉」との関連可能性を指摘する。



相殿神の大物主神は後世の配祀で、社伝では永禄元年(1558年)の社殿造替時に境内社から本殿に遷座・配祀されたとする。