大依羅神社 祭神 祭神について
大依羅神社の社名・神名の「依羅」(よさみ)は地名を指す。『和名抄』では摂津国住吉郡に大羅郷(おおよさみごう:大依羅神社付近)・河内国 丹比郡(たじひのこおり)に依羅郷(現在の松原市北西部)が見え、その一帯を範囲とする地名であったとされる。そして「大依羅神」とは、元来はこの依網(よさみ。依羅)の地域神として祀られたものと推測される。この依網地域に関して、古く『日本書紀』崇神天皇紀・推古天皇紀には「依網池」を造ると見える。この依網池は、王権により農地開拓のため築造された大規模なため池であったが、現在までに消滅している。また、『日本書紀』仁徳天皇紀・皇極天皇紀には「依網屯倉」の記載が、『和名抄』には河内国丹比郡に三宅郷(現在の松原市北部)の記載があり、一帯は依網池の築造に伴って屯倉(みやけ。古代の王権直轄地)も設置されるような重要地であった。その地に鎮座する大依羅神もまた朝廷から重要視され、後述のように文献には朝廷から幾度も奉幣を受けたことが記されている。
また依網地域では、古代氏族として依羅氏(よさみうじ、依網氏/依網我孫<よさみのあびこ>)が居住したことが知られる。依網屯倉の経営にはこの依羅氏一族が関与したと見られ、同氏は大依羅神社の奉斎氏族であったとも推測される。現在の大依羅神の人格神とされる建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのきみ)は、『古事記』に「依網之阿毘古等之祖」と見え、依羅氏の始祖に位置づけられる人物である。ただし『新撰姓氏録』では、依羅宿禰(摂津国皇別)について建豊波豆羅和気王ではなく彦坐命(ひこいますのみこ。開化天皇皇子)の後裔としており、文献により異同が見られる。同録では、そのほかにも神別の依羅連(よさみのむらじ。左京神別・右京神別)・物部依羅連(もののべのよさみのむらじ。河内国神別)や、百済国人の素禰志夜麻美乃君(そねしやまみのきみ)後裔の依羅連(河内国諸蕃)らの記載が見え、「依羅」を称する氏族には複数系統があったとされる。
建豊波豆羅和気王以外の住吉三神(底筒男命・中筒男命・上筒男命)に関しては、『日本書紀』神功皇后摂政前紀において、皇后の筑紫出征の折に依網男垂見(よさみ の おたるみ)が筒男三神を祭る神主に任じられたとする伝承が見え、これに関連づけられている。なお近世の『摂津名所図会』(せっつめいしょずえ)等によれば、かつて祭神は大己貴命・月読命・垂仁天皇・五十師宮(いそしのみや。五十猛命(いそたけるのみこと))の4神とされていた。現在に見る主祭神4神が定められたのちも、以前の4神は引き続き本殿に配祀されている。