天太玉命神社 歴史 概史

 


創建は不詳。前述のように、天太玉命神社の鎮座地一帯は忌部氏の本拠地(本貫)と見られ、当社はその忌部氏の氏神として祀られたと推測される。



国史では、天安3年(859年)に「太玉命神」の神階が従五位上に昇叙された旨の記事が見える。また『類聚三代格』の貞観10年(868年)6月28日太政官符では、飛鳥神の四裔神の1つに「天太玉神」の社が挙げられている。



延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では大和国高市郡に「太玉命神社四座 並名神大 月次新嘗」として、4座が名神大社に列するとともに、朝廷の月次祭新嘗祭では幣帛に預かる旨が記載されている。また『延喜式』臨時祭の名神祭条においても、「太玉神社四座」として見える。しかし、中臣氏の伸長に反して忌部氏は奈良時代平安時代頃に衰退し、太玉命神社もまた以後は衰退したものと見られている。



室町時代嘉吉(かきつ)元年(1441年)の「興福寺官務牒疏」では高市郡忌部に鎮座する「太玉神」の記載が見え、興福寺の末で、神宮寺には蓮光寺(れんこうじ)があることが記されている。



江戸時代には「春日社」と称されていたが、元禄10年(1697年)に松下見林によって『延喜式』神名帳の「太玉命神社」に比定された。



明治維新後、明治41年(1908年)10月に近代社格制度において村社に列した。