宗像神社(桜井市) 由緒
伴信友(ばん のぶとも)は、胸形徳善(むなかた の とくぜん)の女である尼子娘(あまこのいらつめ)が、天武天皇の後宮に入って高市皇子(たけちのみこ)の母となった縁によって、同皇子の外戚の氏神として祀られたものであろうと推測しているが、それ以前に宗像氏が本貫地(ほんかんち。※)から奉斎する宗像三女神を分霊・分祀したものともされている。
その後、高市皇子の後裔である高階氏(たかしなうじ)が氏の神として崇め、元慶4年に官社に列し(『日本三代実録』)、翌5年に本社である筑前宗像神社に准じて神主職を置き、高階氏をこれに補任するよう定められ(同年10月16日の「太政官符」(『類聚三代格』所収))、寛平5年には修理料として近在の傜丁(ようてい)8人を充てる旨の「太政官符」が下された(上述寛平5年「太政官符」)。延喜の制で3座ともに名神大社に列し、月次・新嘗の両祭にも預かっていた。
以後の由緒は詳らかでないが、南北朝以後は高階氏の後裔玉井(たまい)氏の家伝に詳しい。それによれば、高階義岑が弟の玉井勝坊入道西阿(さいあ)とともに赤尾城(あかおじょう。現桜井市赤尾)を拠点に南朝方に与して、興国(こうこく)2年(1341年)7月3日に渡辺渡(わたなべ わたる)と鵄(とび)村(現在の外山一帯)に合戦した際、当社は兵火に罹って焼亡し、近辺の社領17町も興福寺(こうふくじ)領となるなど衰退に傾き、興福寺の縁で春日明神とその若宮が勧請せられるに及んで、「春日社」と称されるようになり、宗像神社自体はあってなきが状態に至った。そのために正平(しょうへい)9年(1354年)、高階忠正が自邸内に神霊を遷して、「中島宗像社」と称えて来たが、天正18年(1590年)に玉井忠滋が旧社地に再興し(但し、春日社も併祭)、幕末には鈴木重胤(すずき しげたね)の尽力もあって、安政6年(1859年)に改めて筑前宗像神社から神霊を勧請し、翌万延(まんえん)元年(1860年)には社殿等を復旧した。
明治に入ってまず無格社に指定され、同8年に「宗像神社」に復称、同21年(1888年)には宗像神を主祭神とする体裁に改めて、同40年(1907年)に村社に昇格した。第二次大戦後は神社本庁に属している。
※本貫(ほんがん、ほんかん)
古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が行われた土地をいう。転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。