葛城一言主神社 祭神 

 


さらに時代が下り、平安時代の『日本霊異記』や『今昔物語集』では、一言主神は役行者えんのぎょうじゃ。役優婆塞(えんのうばそく)/役小角(えんのおづの))によって金峰山(きんぷせん)・葛城山の間に橋を架けるために使役され、さらに役行者の怒りにふれ呪縛された、と記されるまでに神威の低下が見られる。なお、この使役の時に一言主神は自らの顔の醜さを隠して昼は働かず夜のみ働いたとされるが、その説話を受けて松尾芭蕉は『笈の小文』(おいのこぶみ)に歌を残している。



なお、『続日本紀天平宝字8年(764年)条では、雄略天皇と狩りを競った「高鴨神」が土佐国に流されていたが、天平宝字8年に元の地に祀ったとある。しかし『釈日本紀』所引『暦録』の一説では、天平宝字8年に一言主神を土佐から迎えて葛城に祀ったと記されるほか、『釈日本紀』所引『土佐国風土記』逸文では、土佐の高賀茂大社(たかかもたいしゃ。現・土佐神社(とさじんじゃ))祭神は一言主尊であるが一説には味耜高彦根尊(あじすきたかひこねのみこと)であると記され、文献上では一言主神と高鴨神(味耜高彦根命:高鴨神社(たかかもじんじゃ)祭神)との間で所伝に混乱が見られる。そのほかに音の類似や託宣神という性格から、一言主神を事代主命と同一視する説もある。