木嶋坐天照御魂神社 境内

 


境内は御室川(おむろがわ)右岸の低位段丘面上の東端にあり、双ヶ丘ならびがおか。双ヶ岡)の真南、広隆寺の真東に位置する。鳥居は、広隆寺の南門のほぼ真東にある。木嶋社は、その存在が文献上では古く大宝元年(701年)に見え、京都市内でも最古の神社の1つに位置づけられる。元糺の池の存在から文献上での祈雨記事との関連性がうかがえるほか、蚕養神社の存在から秦氏との関連性が見られ、また巨樹の社叢から古来の姿がうかがえることから、境内は京都の歴史上重要な遺跡であるとして京都市指定史跡に指定されている。



社殿はいずれも明治以降の再興。本殿は境内の中央北寄りの、やや高所に建てられている。本殿の東側には蚕養神社(こかいじんじゃ、東本殿)が鎮座し、「蚕の社」の通称は同社に由来する。これらの前に拝所・拝殿がある。



境内の北西隅には「元糺の池(もとただすのいけ)」と称する神泉があり、現在は涸れているがかつては湧水が豊富であったといい、現在も夏の土用の丑の日にこの泉に手足を浸すと諸病に良いとして信仰されている。伝承では木嶋社の社叢を「元糺の森(もとただすのもり)」、神泉を「元糺の池」と称し、下鴨神社の森が「糺の森(ただすのもり)と呼ばれるようになる以前、元々は木嶋社の社叢が「糺の森」と呼ばれていたとする。



この元糺の池の中には三柱鳥居(みはしらとりい、三ツ鳥居三面鳥居三角鳥居)が建てられている。これは柱3本を三角形に組み、3方から中心の神座を拝することを可能とする珍しい形式の鳥居で、「京都三鳥居」の1つに数えられる。中央の神座は、円錐形に小石を積み、中心に御幣を立てて依り代としたものである。この鳥居の起源等は詳らかでなく、秦氏の聖地である双ヶ丘(ならびがおか)・松尾山(松尾大社神体山)・稲荷山(伏見稲荷大社神体山)の遥拝方位を表したとする説などがある。現在の鳥居は天保2年(1831年)の再興であるが(社伝では享保年間(1716ね-1735年)の修復)、安永9年(1780ね)の『都名所図会(みやこめいしょずえ)では豊かな湧水とともに現在に見るのと同じ三柱鳥居の様子が描かれている。



平成14年(2002年)の発掘調査によって、かつては本殿東側の各所にも泉のあったことが判明しており、元糺の池もそのような泉の1つが神聖化されたものと考えられている。この発掘調査では、少なくとも平安時代中期頃に遡る、泉に伴う石敷遺構が出土している。