名神大社 名神祭
名神祭(みょうじんさい)は国家的事変が起こり、またはその発生が予想される際に、その解決を祈願するための臨時の国家祭祀である。「名神祭式」に規定されるが、そこには対象とする神社名・座数・幣物の色目が記載されるのみなので、その起源や詳しい儀式次第を知ることはできないものの、儀式次第については後述する祈雨神祭との類似から、『江家次第』(ごうけしだい)に記す丹生川上(にうかわかみ)・貴布弥(きふね)両神社に対する祈雨・止雨のそれや、『朝野群載』(ちょうやぐんさい)に記す祈雨祭の祝詞(のりと)が参考になるとされる。
具体的な祈願の例としては、天平宝字8歳(764年)11月癸丑(20日)の藤原仲麻呂の乱における仲麻呂誅討の報賽として近江国の名神社に奉幣したとある、実際に政治的事変が起こった際に行われた記事が初見であるが(『続日本紀』)、延暦7年(788年)5月己酉(2日)の詔勅に「伊勢神宮及び七道(しちどう)の名神に祈雨す」とあってから以後は、記録に残る例は畿内の名神に限る場合は祈止雨を、全国名神に及ぶ場合は豊稔の予祝や災害の予防といった抽象的なものを祈願したものが大半を占める(上記弘仁12年の官符参照)。特に畿内の名神については、同じ臨時祭である祈雨神祭と重なるものがほとんどであることからその関連性が指摘でき(幣物の色目もほとんど同じである)、祈雨神祭に連なるのは名神と山城・大和両国の山口神(やまぐちのかみ)や水分神(みくまりのかみ)といった農耕の用水に関わる神であるため、名神にこれら山口・水分の諸神を加えて成立したのが国家の祈雨神であろうともされる。なお、祈雨止雨祈願の場合、まず丹生川上・貴布祢両神社に奉幣し、神験がなければ龍田(たつた)・廣瀬(ひろせ)両神社を加え、なお治まらなければ、11社(二十二社の前身)へ、次に祈雨神祭祭神へ、更に畿内名神社へ、と漸次拡大されていったようである。