厳島神社(釧路市) 由緒

 

文化2年(1805年)、アイヌを使役して漁業や交易を行うために当地に設けられた「クスリ場所(釧路国釧路郡)」の請負人、佐野孫右ェ門(さの まごえもん。佐野孫右衛門)が漁業安全を祈願するために安芸国厳島社の分霊を勧請したのが創祀で、一緒に祀られている阿寒大神を除く5柱も、文化年間から明治初期にかけて釧路に移住した和人(わじん)が豊漁と航海安全を祈って道外から勧請した神々である。当神社の記録上の初見は文化6年の『東行漫筆』(とうこうまんひつ)にクスリ会所内に弁天、稲荷、山神が祀られていたという記事で、同時代の絵図にも見え、安政4年(1859年)の『蝦夷日誌』(えぞにっし)には「鎮守の社<稲荷弁天>阿寒三社 美々敷立たり」と記されている。クスリ会所はクスリ場所の拠点として旧真砂町に置かれた役所であるが、初めは旧真砂町のアイヌがカムイシュマ(神岩)と呼んでいた高台にイナウという先端部を細かく裂いた(削り掛けヤナギミズキの棒を立てて祀っていた地(現南大通七丁目)に社殿を造営したが、明治20年(1887年)に米町にあった金毘羅堂に遷座して、同24年2月に現社地に社殿を新築して遷座した。



明治24年11月に郷社大正12年(1923年)5月に県社に列格し、昭和40年(1965年)、境内に釧路支庁管内の3,000余柱の英霊を祀る釧路護国神社を創祀した。

 

 


※和人(わじん)

アイヌ以外の日本人または大和民族が自分たちをアイヌと区別するために用いた自称