秩父神社 歴史 概史 ①

 


当社の社殿と参道の南側延長線上に武甲山ぶこうざん/ぶこうさん。時代によって武光山、秩父嶽(ちちぶだけ)妙見山(みょうけん ざん/さん/やま)などとよばれる)があり、元々は武甲山を神奈備(かんなび、かむなび)として遥拝する聖地であったと考えられている。




先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、崇神天皇10年、知知夫国の国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神である八意思兼命を祀ったことに始まるとされる。さらに允恭(いんぎょう)天皇年間に知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)の九世子孫である知知夫狭手男が知知夫彦を合わせて祀ったといわれる。地域名の「秩父」の名を冠するが、「知知夫」から「秩父」に変わった時期は明らかではない。なお、「秩父」の初見は708年である。



その後、律令制度の崩壊により、秩父神社を支えてきた豪族の力が弱まるにつれ、当社も次第に衰微していったものと思われる。これに代わって登場するのが妙見社である。



社記および『風土記稿』によれば、天慶(てんぎょう、てんけい、てんきょう)年間(938年-947年)、平将門と常陸大掾・鎮守府将軍 平国香(たいら の くにか)が戦った上野国染谷川の合戦(そめやがわのかっせん。承平天慶の乱)で、国香に加勢した平良文(たいら  よしふみ)は同国群馬郡花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を打ち破ることができた。以来良文は妙見菩薩を厚く信仰し、後年秩父に居を構えた際、花園村から妙見社を勧請した。これが秩父の妙見社の創成である。



その後良文は下総国に居を移した。下総での子孫が建立した千葉神社(ちばじんじゃ)の祭神も妙見菩薩である。秩父に土着した子孫は秩父平氏と呼ばれる武士団を形成した。