伊佐須美神社 祭神 祭神について

 

伊佐須美神社で現在祭神とする4柱は、いわゆる四道将軍説話に関係を有する。四道将軍とは、『日本書紀』に見える伝説上の4人の将軍、大彦命武渟川別命吉備津彦命(きびつひこのみこと)丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)の総称である。同書では、4人は崇神天皇10年10月にそれぞれ北陸東海・西道・丹波に国土平定のため派遣され、崇神天皇11年4月に平定を報告したという。一方、『古事記』では派遣人物・時期において異同があるが、やはり大毘古命・建沼河別命を高志道・東方十二道に遣わしたとし、さらに大毘古命・建沼河別命が行き会った地を「相津」と名づけたと地名の起源を伝える(相津は会津を指す)。

 

 

四道将軍説話については、『古事記』『日本書紀』での記述の異同の存在や、崇峻天皇(すしゅんてんのう)2年(589年)に近江臣満(おうみのおみみつ)・宍人臣鴈(ししひとのおみかり)・阿倍臣(あべのおみ)がそれぞれ東山道使・東海道使・北陸道使として派遣されたと見える記事の存在から、後世の出来事に基づく造作とする見解が強い。一方で、大毘古命・建沼河別命の後裔である阿倍氏族の分布は下野から会津を経て越後へとつながっており、何らかの歴史的背景が存在したとする指摘もある。併せて、会津地方には亀ヶ森古墳河沼郡 会津坂下町(あいづばんげまち)、東北第2位の規模)や三角縁神獣鏡を出土した会津大塚山古墳(東北第4位の規模)に代表される4世紀代(古墳時代前期)の大型前方後円墳が築かれており、早い段階でのヤマト王権の伝播が考古学の面からも指摘されている。

 

 

伊佐須美神社の社伝では、上記の四道将軍説話の延長線上の伝承として、当地で行き会った大毘古命・建沼河別命父子が国土開拓祖神の伊弉諾尊伊弉冉尊を奉斎したことに始まるとしている。そのため、古くは伊弉諾尊・伊弉冉尊2柱を祭神としたが、幕末に国学者の大竹政文(おおたけ まさぶみ)により大彦命・武渟川別命の2神祭神説が唱えられ、以後祭神論争が続いた。現在のように4柱を祀ると定められたのは、戦後からである。なお「いさすみ(伊佐須美)」という神名については、「いさなみ(伊弉冉)」の転音とする説や、大毘古命・建沼河別命2人が「いざ進み」と励まし合ったとする説があるが明らかではない。