千栗八幡宮 歴史

 

『鎮西要略』(ちんぜいようりゃく)によれば、神亀(じんき、しんき)元年(724年)、当時の肥前国養父(やぶ)郡司・壬生春成(みぶ はるなり)八幡神の神託を受けて千根(ちこん)のが生えている地に社を建てて八幡神を祀ったとされる。

 

 

太宰管内志(だざいかんないし)に引用された『外部局日記』によれば、長保(ちょうほう)元年(999年)、八幡大菩薩千栗宮から油が湧出し、朝廷に献上された。

 

 

承平年間(931年 - 938年)に宇佐八幡宮の別宮となったとみられ、以後その五所別宮の一として崇敬を受けた。

 

 

南北朝時代には当宮の西に千栗城(ちりくじょう)が築かれ、戦国時代には神域も度々戦乱に巻き込まれ幾度か社殿も焼失したが、後に領主龍造寺(りゅうぞうじ)氏鍋島(なべしま)氏によって社殿の再興、社領の寄進が行われた。

 

 

平安時代後期より肥前国一宮を称してきたが、近世になって式内社・河上神社(かわかみじんじゃ。・與止日女神社(よどひめじんじゃ))との間で一宮の称が争われた。