流鏑馬 歴史
流鏑馬を含む弓馬礼法は、896年(寛平8年)に宇多天皇が源能有(みなもと の よしあり)に命じて制定され、また『中右記』(ちゅうゆうき)の永長(えいちょう)元年(1096年)の項などに記されているように、馬上における実戦的弓術の一つとして平安時代から存在した。
関白藤原忠通(ふじわら の ただみち)によって春日大社若宮の社殿が改築され、保延2年(1136年)3月4日春日に詣で、若宮に社参(中右記・祐賢記(ゆうけんき)文永10・2・26条)し、9月17日始めて春日若宮おん祭りを行ない、大和武士によって今日まで「流鏑馬十騎」が奉納され続けてきた。(中右記・一代要記)
『吾妻鏡』には源頼朝が西行(さいぎょう)に流鏑馬の教えを受け復活させたと記されている。鎌倉時代には「秀郷流」(ひでさとりゅう)と呼ばれる技法も存在し、武士の嗜みとして、また幕府の行事に組み込まれたことも含めて盛んに稽古・実演された。北条時宗の執権時代までに、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)では47回の流鏑馬が納められたとされる。だが、しかし、個人の武勇に頼っていた時代から、兵法や兵器が進化して足軽や鉄砲による集団戦闘の時代である室町時代・安土桃山時代と、時を経るに従い、一時廃れた。
江戸時代に入り、享保9年(1724年)、時の将軍、徳川吉宗の命を受けた小笠原流20代小笠原常春(おがさわら つねはる)は、小笠原家の伝書を研究し新たな流鏑馬制定、古式と共に奥勤めの武士達に流鏑馬、笠懸(かさがけ)の稽古をつける。享保13年(1728年)、徳川家重の世嗣ぎのために疱瘡(ほうそう)治癒祈願として穴八幡宮(あなはちまんぐう)北の高田馬場(現在の東京都新宿区西早稲田三丁目)にて流鏑馬を執り行い、これを奉納した(この10年後、無事疱瘡祈願成就した折に報賽として再び行われ、その様子を絵巻にしたものが『流鏑馬絵巻』である)。この後、将軍家の厄除け、誕生祈願の際などに度々流鏑馬が行われるようになる。
明治維新を経て幕府解体、また第二次世界大戦と以後の煽りを受けるなど三度の衰退を見るが、明治以降も継承され続け、現在に至る。
現在、流鏑馬は様式を多様に変化させつつも伝統を受け継ぎ、日本各地で盛んに行われ、観光の目玉となっている。 また、スポーツ流鏑馬という名称で競技性を持たせた馬上弓術が乗馬倶楽部などにより新興され各所のルールで親しまれている。