土佐神社 歴史 概史 ①

 

史実として国史に土佐神社の記載が見えるのは『日本書紀天武天皇4年(675年)条が初見で、「土左大神」から天皇に神刀1口が献上されたという。これはレガリア(首長の政治的権力の象徴品)の献上、すなわち土左大神奉斎氏族の朝廷への服属を意味すると解されている。また同書朱鳥元年(686年)条によると、朝廷から秦忌寸石勝(はたのいみき いわかつ)が派遣されて土左大神に奉幣のことがあったという。

 

 

続日本紀』では天平宝字8年(764年)条に前述のように「高鴨神」の土佐配流伝承が見えるほか、『新抄格勅符抄』では天平神護元年(765年)に「高鴨神」に加えられた神封53戸のうち土佐国に20戸と記載が見え、中央の賀茂氏との関わりが示唆される。

 

 

天安3年(859年)1月には、「都佐坐神」の神階が従五位下から従五位上に昇叙されている。『長寛勘文』によると、承平(しょうへい/じょうへい)5年(935年)の海賊平定祈願に功があったとして天慶3年(940年)に全国13社に昇叙のことがあったが、その中で土佐の「高賀茂神」は正一位の極位に叙せられている。

 

 

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では土佐国土佐郡に「都佐坐神社 大」と記載され、式内大社に列している。土佐国においては唯一の大社になる。また『和名抄』に見える地名のうちでは、現鎮座地は土佐郡土佐郷に比定されるほか、土佐郡神戸郷(比定地諸説)は土佐神社の封戸に関連する郷名とされる。

 

 

百錬抄(ひゃくれんしょう)元仁(げんにん)元年(1224年)条によると、大風(台風)によって「土佐国一宮」の神殿以下が一宇も残さずに顛倒したという(社伝では嘉暦(かりゃく)元年(1326年)。再建は不明)。中世以降に土佐神社は土佐国において一宮の地位にあったとされるが、それはこの記事を初見とする。建武3年(1336年)には南朝・北朝勢力の合戦が一宮であったという。その後は詳らかでないが、文献によれば神職の武士化と見られる執行氏の存在が見えるほか、中世期の神社一帯には「一宮庄(一宮荘)」という荘園が形成されていたと見られる。また『土佐物語』では天文年間(1532年-1555年)に神職75人が長宗我部国親(ちょうそかべ くにちか)に降伏したと伝えており、この頃から長宗我部氏を支持する勢力になったと推測される。