土佐神社 歴史 創建
『釈日本紀』(鎌倉時代末期成立)所引『暦録』(れきろく)によると、雄略天皇(第21代)4年2月に天皇が大和葛城山(やまとかつらぎさん)にて狩りをしている最中、天皇は一言主神と出会ったが、その不遜な言動により一言主神を土佐に流した。流された一言主神は、土佐において初め「賀茂之地」に祀られ、のち「土佐高賀茂大社」(現在の土佐神社に比定)に遷祀された。そして天平宝字8年(764年)に賀茂氏の奏言によって一言主神は大和国の「葛城山東下高宮岡上」に遷されたが、その和魂はなお土佐国に留まり祀られている、という。土佐神社側では、この記事をもって雄略天皇4年を神社の創建と伝える。初めに鎮座した「賀茂之地」の比定地には、西方の賀茂神社(かもじんじゃ。幡多郡(はたぐん)黒潮町入野、式内社)、賀茂神社(かもじんじゃ。須崎市多ノ郷)、鳴無神社(おとなしじんじゃ。須崎市浦ノ内)など諸説があるが明らかでない。
前述(「祭神」節)のように、歴史的には在地豪族の都佐国造が土左大神の原始祭祀を行なったが、賀茂氏進出に伴いその祭祀権は賀茂氏に移ったとされる。この都佐国造の本拠地には諸説があるが、『土佐国風土記』逸文で土左高賀茂大社の東4里(約2キロメートル)に土佐郡の郡家(郡衙。ぐんが)があると見えることから、この郡家は国造の館を踏襲したと推測して一宮周辺に比定する説が有力視される。一宮周辺含め都佐国造の領域(高知県中部・東部)では、古墳時代後期(6世紀-7世紀代)の多くの古墳の分布が知られる。
なお、土佐神社境内の東北辺に祀られている「礫石(つぶていし)」に関して、古くはこれを磐座として祭祀が行われたとする説がある。そのほか、土佐神社付近にも古墳2基(一宮古墳群)があったことが知られる。