吉備津彦神社 歴史

 

社伝では推古天皇の時代に創建されたとするが、初見の記事は平安後期である。神体山と仰がれる吉備の中山の裾の、大吉備津彦命の住居跡に社殿が創建されたのが起源と考えられている。

 

 

縁起5年(905年)から延長5年(927年)にかけて編纂された『延喜式神名帳』には、備前国の名神大社として安仁神社(あにじんじゃ)が記載されているが吉備津彦神社の記載はない。しかしながら、一宮制が確立し名神大社制が消えると、備前国一宮は吉備津彦神社となったとされている。これは天慶2年(939年)における天慶の乱藤原純友の乱)の際、安仁神社が純友に味方したことに起因する。一方で吉備津彦神社の本宮にあたる吉備津神社が、朝廷による藤原純友の乱平定の祈願の御神意著しかったとして940年に一品の神階を授かった。それに伴い安仁神社は一宮としての地位を失い、備前の吉備津彦神社にその地位を譲る事となったとされる。

 

 

戦国時代には、日蓮宗を信奉する金川城(かながわじょう)主・松田元成(まつだ もとなり)による焼き討ちに遭い社殿を焼失した。松田氏滅亡後、宇喜多直家(うきた なおいえ)が崇敬し、高松城水攻めの際には羽柴秀吉も武運を祈願したと伝えられている。

 

 

江戸時代になると姫路藩主で岡山城主の池田利隆(いけだ としたか)が本社を造営した。利隆は光政(みつまさ)の誕生を期に子安神社を造築した。その後、岡山藩・池田忠雄(いけだ ただかつ)により本社・拝殿が造営された。池田綱政(いけだ つなまさ)が社領300石を寄進したほか本殿を造営し、本殿・渡殿(わたどの)・釣殿(つりどの)・祭文殿(さいもんでん)・拝殿と連なった社殿が完成した(元禄10年(1697年)に完成)。

 

 

明治5年(1872年)、近代社格制度において県社に列し、昭和3年(1928年国幣小社に昇格した。

 

 

昭和5年(1930年)12月、失火により本殿と随神門以外の社殿・回廊を焼失した。現在見られる社殿は昭和11年(1936年)に完成したものである。