水若酢神社 歴史 概史 中世
中世期の史料の初見は正長(しょうちょう)2年(1429年)の「久清書状写」で、「隠州大宮司社領」と見える。また享禄(きょうろく)3年(1530年)の史料に「一宮造作」と見えるのを初見として、隠岐国では一宮の位置づけにあった。ただし神官が「大宮司」を称したのは隠岐国で当社だけであることから、先の正長2年の文書をもって一宮の初見とする説もある。しかしながら『隠岐国神名帳』によれば、当社は「正三位 水若酢明神」として正三位の位置づけにあった一方、天健金草神社(あまたけかなかやじんじゃ)・玉若酢命神社(たまわかすみことじんじゃ)は正一位の位置づけにあったことから、中世期には地位が低下し名目上の一宮であった可能性も指摘される。
中世の隠岐諸島では、隠岐国守護代である隠岐氏の伸長に伴って隠岐氏・在地勢力の間で対立が強まっており、享禄3年(1530年)の文書では「大宮司謀叛」のことがあって大宮司が代氏に代わったと見える(ただし検討が必要な史料とされる。代氏以前の大宮司は不明)。また『雲陽軍実記』(うんようぐんじつき)や『陰徳太平記』(いんとくたいへいき)にも、隠岐清政と在地武士との争いにより隠岐氏が島前・島後を支配するようになった旨が見えており、隠岐氏との争いの中で水若酢神社の大宮司が没落したのは事実とされる。天正5年(1577年)の文書では代民部助の一宮大宮司職への補任の旨が見え、大宮司職は続けて代氏によって継承されている。