都怒我阿羅斯等 記録

 

日本書紀』では垂仁天皇2年条の分注として2つの所伝が記載されている。1つ目として崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦(けひのうら)に来着したという。そしてこれが「角鹿(つぬが)」の語源であるとしている(角鹿からのちに敦賀に転訛)。また垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に崇神天皇の諱(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔した(任那(弥摩那。みまな)の語源)。その時に阿羅斯等に下賜した赤絹を新羅が奪ったといい、これが新羅と任那の争いの始まりであるとする。

 

 

2つ目の所伝では、阿羅斯等が国にある時、黄牛(あめうし。飴色の毛の牛)の代償として得た白石が美しい童女と化したため、阿羅斯等は合(まぐわい)をしようとした。すると童女は阿羅斯等のもとを去って日本に行き、難波並びに豊国国前郡の比売語曽社の神になったという。

 

 

なお2つ目の所伝の関連伝承が、『古事記』の天之日矛(天日槍)阿加流比売神説話や、『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)に見える。