アメノヒボコ 考証 ①
アメノヒボコ伝説は『日本書紀』『古事記』のうちで代表的な渡来伝承になるが、一般には1人の歴史上の人物の説話ではなく、朝鮮系渡来人集団をアメノヒボコという始祖神に象徴した説話と考えられている。「アメノヒボコ(天日槍/天之日矛)」の名称自体も日本名であり、出石地域を中心とする渡来系一族(出石族)が奉斎した「日矛/日槍」を人格化したことに由来するとされる。この氏族の渡来の時期は定かでなく、出石神社が弥生遺跡の中心地に位置することや蹴裂(けさき)による開拓伝承の存在から農耕伝来の時期とする説がある一方、『日本書紀』の「陶人」という記述から須恵器生産の始まる5世紀以降と推測する説がある。また、アメノヒボコの伝承地では鉄文化との関わりが見られることから、須恵器・製鉄技術伝来の伝承を背景に見る説もある。『播磨国風土記』において播磨の地方神たる葦原志挙乎(あしはらのしこお。葦原志許乎)または伊和大神との争いが記されることも、その渡来の様子の一面を表す伝承として注目されている。
この出石族一族に関して、日光感精による懐妊説話が遼河流域・華北東部・モンゴル・満州など東北アジアに広くみられる神話であることから、元々は日矛を祭祀具に持つ大陸系の日神信仰を持つ集団であったと想定する見方も存在する。また赤玉についても、高句麗の朱蒙(しゅもう、チュモン)の卵生説話がモチーフの朝鮮系伝承と見られるが、この赤玉はその日神祭祀における太陽の象徴品と見られる。加えて『日本書紀』に記される播磨→近江→若狭→但馬という遍歴は、この集団の移動または分布を反映するといわれる。この出石族の氏については「出石君(いずしのきみ/いづしのきみ)」と称したとする説もあるが、古代但馬の人物としては見えないため明らかでなく、一族自体が比較的早期(記紀編纂の頃まで)に衰退したともいわれる。出石君とは別に三宅氏と見る説もあり、その説ではヤマト王権が屯倉(みやけ)経営を行う6世紀以後に、出石神社奉斎氏族が三宅氏を称し始めたとする。