アメノヒボコ 記録 風土記 播磨国風土記 ②

 

 

· 宍禾郡雲箇里(うるかのさと) 波加村条 

伊和大神(いわおおかみ)の国占有の時、天日槍命が先に着き、大神は後から来たが、大神が「対策をはかりも(考えも)しなかったから天日槍命が先に着いたのか」と言ったので「波加村(はかのむら)」と称されるという(宍粟市波賀町安賀・有賀・上野付近に比定)。

 

 

· 宍禾郡御方里(みかたのさと)条 

葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡(けたぐん)、1本は夜夫郡(養父郡。やぶぐん)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた)」と称されるともいう(宍粟市一宮町の北半部に比定)。

 

 

· 神崎郡(かんざきのこおり)

多駝里(ただのさと) 粳岡(ぬかおか)条 

伊和大神と天日桙命の2神が軍を起こして戦った際、大神の軍が集まって稲をつき、その糠が集まって丘となったが、その箕を落とした糠を墓といい、また「城牟礼山(きむれやま)」というとする(姫路市船津町(ふなつちょう)八幡の糠塚(やわたのぬかづか)に比定)(別伝は省略)。

 

 

· 神前郡多駝里 八千軍条 

天日桙命の軍兵が8,000人あったため「八千軍野(やちぐさの)」と称されるという(神崎郡福崎町(ふくさきちょう)八千種付近に比定)。