出石神社 歴史 社領
『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒によれば、当時には神戸として但馬国から13戸が充てられていた。
弘安8年(1285年)の『但馬国太田文』には、社領田が141町6反60歩があると見える。内訳は常荒流失3町1反、出石郷押領4町4反120歩、長日御祭田71町256歩、講経修理田等27町9反240歩、引声并御神楽田以下料11町1反240歩、定田8町8反140歩。また、本家を「高辻姫宮」(京都高辻通(たかつじどおり)に邸宅を持つ女性を指すが未詳)、案主を「藤肥前々司跡子息三人分領、一人左衛門入道蓮阿、一人四郎左衛門入道妙心、一人五郎左衛門入道定智」とする。
正平6年(1351年)の後村上天皇綸旨によれば、建武の新政において領家は廃されたとされる。