居多神社 歴史 概史

 

神社所蔵文書(伝『日本後紀』逸文)では弘仁4年(813年)に「居多神」の神階が無位から従五位下に昇叙されたといい、その後神階は貞観3年(861年)に従四位下に昇叙された。

 

 

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では、越後国頸城郡に「居多神社」と記載され、式内社に列している。また、『朝野群載(ちょうやぐんさい)承暦4年(1080年)6月10日記事では「気多神」として記載が見えるほか、社伝では承元(じょうげん)元年(1207年)に親鸞が越後国府に流罪になった際には居多神社に参詣したという。

 

 

南北朝時代以降は、居多神社は守護上杉家からの崇敬を受けて越後国一宮に位置づけられたとされる。居多神社を一宮とする史料は、貞和(じょうわ)3年(1347年)の居多神社所蔵文書を初見として、他の居多神社文書や上杉家文書等にも散見される。一方、越後国の一宮として知られる神社には弥彦村(やひこむら)彌彦神社(いやひこじんじゃ)がある。これら越後国の一宮制の展開の詳細は明らかでないが、平安期までは「一宮」の呼称自体は使用していなかったものの彌彦神社が実質的な一宮であったと見て、南北朝期に居多神社が上杉家の崇敬を得て一宮を公称するとともに、彌彦神社側でも一宮を称し始めたとする説がある。

 

 

貞和3年(1347年)には幕府から修繕費として田井保が与えられたほか、観応(かんのう、かんおう)2年(1351年)には越後守護・上杉憲顕(うえすぎ のりあき)から荒蒔保が寄進された。また文明18年(1486年)には京都常光院の尭恵(ぎょうえ)が(『北国紀行』)、長享(ちょうきょう)2年(1488年)には京都相国寺(しょうこくじ)僧の万里集九(ばんり しゅうく)が居多神社に参詣している(『梅花無尽蔵』)。『北国紀行』によると「ながさき(花ヶ前)」という神主が社務を担ったとあり、その言では居多神が神功皇后三韓征伐の頃から北海擁護の神としてあらたかであるとしている。この神主の花ヶ前(はながさき)氏は任用国司として越後国に下った有力在庁であったとされ、現在まで神職を継承している。

 

 

戦国時代には戦乱に巻き込まれており、天文(てんぶん、てんもん)2年(1533年)に上杉定憲(うえすぎ さだのり。上条定憲(じょうじょう さだのり))によって社殿が焼かれ、同年に守護代・長尾為景(ながお ためかげ)は上杉定憲ら討滅を祈願して社殿再興を約した。また上杉謙信の死後、天正6年(1578年)から始まった後継者争い(御館(おたて)の乱)では上杉景虎(かげとら)方についたため上杉景勝(かげかつ)方の攻撃を受けて社殿を焼失した。この時に神官の花ヶ前盛貞・家盛父子は国外に逃亡し、盛貞は国外で死去したが、家盛は景勝の会津転封後に堀秀治(ほり ひではる)春日山城に入った際に帰国した。

 

 

慶長4年(1599年)には堀秀治から社領として13石が与えられ、江戸時代に入ってから慶長16年(1611年)には幕府から朱印地として100石が与えられた。

 

 

慶応2年(1866年)には身輪山の社地が海岸侵食によって崩壊し、神霊は宮司宅に遷座し奉斎された。明治維新後、明治5年(1872年)5月に近代社格制度において郷社に列し、明治6年(1873年)5月に県社に昇格した。明治12年(1879年)に現在地に社殿が造営され遷座した。この社殿は明治35年(1902年)に火災で焼失、明治40年(1907年)に仮社殿が造営された。その後、平成20年(2008年)6月に本社殿が造営されて現在に至っている。