葦原中国平定 日本書紀 巻第二神代下・第九段本文 ②

 

天稚彦の妻の下照姫が哭(な)き泣(いさ)ち悲哀(かなし)む声は天に達した。この時、天國玉がその泣き声を聞いて、天稚彦の死を知り、疾風(はやて)を遣わして、屍を天に運ばせ、すぐに喪屋を造って(もがり)を行った。※(一部省略 )そうして八日八夜、啼(おら)び哭(な)き悲しみ偲んだ。これより前、天稚彦が葦原中國にいた頃、味耜高彦根神(あぢすきたかひこねのかみ)と親友であった。そこで、味耜高彦根神は天に昇りて喪を弔(とむら)う。

 

 

ところが、この神は天稚彦の平生の儀(よそおい)によく似ていた。そこで天稚彦の親族や妻子は皆、「吾が君は猶(なお)在り」と言い、衣服にすがりついて喜びにわいた。すると味耜高彦根神は怒り色を作(な)して、「朋友の道理宜(よろ)しく相い弔うべし。故、汚穢(けがれ)を憚(はばか)らず遠きより赴(おもむ)き哀(かなし)む。何ぞ誤りて我を亡者となす」と言って、大葉刈(おおはがり)またの名は神戸劒(かむどのつるぎ)を抜いて、喪屋を斬り倒した。これが落ちて、今の美濃国(みののくに)藍見川(あいみのかわ)の上(かみ)に在る喪山(もやま)になった。

 

 

この後、高皇産靈尊は更に諸神を集えて、葦原中國に遣わすべき神を選んだ。皆は「磐裂根裂神(いはさくねさく)の子、磐筒男(いはつつのお)・磐筒女(いはつつのめ)が生める子、経津主神(ふつぬし)、是(これ)將(まさ)に佳(よ)けん」と進言する。この時、天石窟(あまのいわや)に住む神、稜威雄走神(いつのおはしり)の子甕速日神(みかはやひ)、甕速日神の子速日神(ひのはやひ)、速日神(の子武甕槌命(たけみかづち)がいた。この神が進み出て、「豈(あに)唯(ただ)經津主神)獨り大夫(ますらお)にして、我は大夫に非ずや(何故、經津主神だけが立派で、私は立派ではないのか)」と言った。大変熱心に語るので、經津主神に副(そ)えて葦原中國を平定させることにした、とある。

 

 

二神(ふたはしらのかみ)はそこで出雲国(いずものくに)の五十田狹之小汀(いたさのおはま)に降り到り、十握劒を抜いて逆さに地面に突き立てると、その剣先にあぐらをかいて座り、大己貴神に、「高皇産靈尊の皇孫を降(くだ)し、此の地に君臨せんと欲す。故、まず我ら二神を駈除(はら)い平定(やわし)に遣す。汝(いまし)が意(こころ)は何如(いかに)。まさに避(さ)らんや不(いな)や」と尋ねた。すると大己貴神は「まさに我が子に問いて、然る後に報(かえりごともう)さん」と答えた。この時、その子の事代主神(ことしろぬし)は出かけていて、出雲國の三穂之碕(みほのさき)にいて魚を釣るを樂(わざ)となす。あるいは、遊鳥(とりのあそび)を樂となす(鳥の狩りをしていた)とも言う。