彌彦神社 歴史 概史

 

 

創建年代は不詳。祭神の天香山命は、『古事記』に「高倉下(たかくらじ)として登場する。社伝によれば、命は越後国開拓の詔により越後国の野積の浜(のづみのはま。・長岡市)に上陸し、地元民に漁撈(ぎょろう)製塩稲作養蚕などの産業を教えたとされる。このため、越後国を造った神として弥彦山に祀られ「伊夜比古神」として崇敬された。このほか、彌彦の大神は、神武天皇即位の大典(たいてん/だいてん。大きな儀式)の際に自ら神歌楽(かがらく)を奉奏したとされる。ただし、尾張国造家の祖神である天香山命が越後に祀られるのは不自然なため、本来の祭神は北陸の国造家高橋氏祖神の大彦命(おおびこのみこと)ではないかとする説もある。

 

 

江戸時代には、越後高田藩藩主松平忠輝(まつだいら ただてる)が、500石の社領寄進し、朱印地となった。朝廷からも篤く崇敬されたという。社家明治時代まで高橋氏が世襲した。

 

 

この頃神主であった高橋左近光頼(たかはし さこん みつより)により、神道家・橘三喜(たちばな みつよし)の教えの影響下で、神社の神宮寺を廃して仏像を取り払い神葬祭(しんそうさい。神道の葬儀)を行うなど、神仏分離が行われた。しかし元禄4年(1691年)に光頼は神宮寺の僧に訴えられて敗訴している。

 

 

国学者の平田篤胤(ひらた あつたね)は、彌彦神社に聖徳太子が記した神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)が存在すると主張したが、該当の文書は火事で焼失したと伝わる。

 

 

明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列した。