射水神社 歴史 明治時代以降 ①

 

明治時代に入ると、明治元年(1868年)国教政策により神仏分離令が出された。

 

 

金沢藩においては、明治2年(1869年)7月に二上山養老寺の知識米取立て指止め令が出される。『高岡市史 下巻』によれば、知識米取立て指止めは、この年が大凶作であったため貧農の難渋を少しでも和らげるため発せられたもので、寺院の抑圧を直接の目的とはしていなかったが、神仏分離令により僧徒が神社へ関与することを禁じていたため、これを機に江戸時代初期から続いていた知識米の一円徴収は自然消滅し、山伏の大部分は四散して壮大を誇った別当寺は見る影も無く荒廃、養老寺は金光院と慈尊院の2坊が細々と法燈を継ぐ状況となったと言う。この様な状況の中で二上山大権現は射水神社と改称し、社僧還俗して神職となった。

 

 

明治4年(1871年)には旧社格制度により国幣中社に列格された。

 

 

明治8年(1875年)9月16日、高岡城本丸跡の現在地に遷座した。

 

 

 『高岡市史 下巻』によれば、明治5年(1872年)5月に権宮司へ就任した関守一(せき もりかず)が社殿改築の志を抱き、奔走の結果、高岡城本丸跡への遷座について明治7年(1874年)7月8日官許を得たのだと言う。遷座の表向きの理由は、二上山麓の社地が狭いうえ墓地に隣接して不浄少なからず、かつ山間に僻在して、到底神徳発揚の地では無い、と言うものであった。これにより往古からの産土神を奪われることとなった二上村民は、由緒を無視した暴挙であるとして必死の抵抗を試みたが、官命による正式の遷座であるため如何ともすることができなかったと言う。さらに同書によれば、時流のどさくさに乗じて強引に押し切った感はあっても、官許を得た正式の遷座であることから高岡側は喜び、町を上げて協賛したのだと当時を伝えている。明治7年(1874年)10月25日高岡側へ遷座の趣旨を説明し、各町から人足を供出して地均しを行った。同年11月18日地清祓、12月6日地鎮祭、翌8年(1875年)6月17日には上棟祭、そして同年9月16日に遷座祭を行った。