射水神社 歴史 創建から江戸時代 ②

 

8世紀後半に成立したと言われる『万葉集 巻17』には、大伴家持によって当神社を詠んだ和歌が収録されている。

 

 

千妙(せんみょう)聖人が著述したものに、長寛元年(1163年)白山中宮の長吏(ちょうり)隆厳(りゅうげん)が私注を加えて成立したと伝えられる『白山之記』には、聖武天皇の治世である神亀(じんき/しんき)年間に越中国から能登国が分立した際、越中国二宮であった当神社が一宮になったこと、その後、越中国に新気多(気多神社)が奉祝されると、新気多と当神社の間に一宮争いが起こり、当神社が無力の間に新気多が一宮になった、との記事がある。

 

 

延長5年(927年)には『延喜式神名帳』へ記載され、式内社となった。『延喜式神名帳』では越中国射水郡の式内13社を大社1座・小社12座としているが、当神社は『延喜式』写本のうち「出雲本」において名神大社と記載されている。しかし、「宮内省図書寮本」や『延喜式』最古の写本である「九条本」では気多神社が名神大社と記載されている。これについて、一般的に「出雲本」は誤記とみなされ、現在は「宮内省図書寮本」や「九条本」を支持して気多神社を名神大社する説が有力となっている、と『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』では述べている。しかしながら、『延喜式』の「名神祭」の項には、気多神社も当神社も記載が無い。