鳥海山大物忌神社 歴史 一宮争い ②
蕨岡、矢島の御堂建替の論争
修験道には紀伊の熊野に始まった順峰と逆峰の2つの法式があるが、鳥海山においては蕨岡が順峰(じゅんぶ)、矢島と滝沢が逆峰(ぎゃくぶ)を称し、古来より順逆両部勤行の霊山として修行が行われていた。それにもかかわらず、矢島と滝沢の間に逆峰名称の論争が起き、また蕨岡と矢島の間には順逆の論争が発生した。この状況により滝沢は蕨岡の援助を得て逆峰院主を矢島から奪ったが、延宝6年(1678年)矢島は論争のすえ逆峰院主を取り戻した。これにより矢島と滝沢の逆峰院主の論争は終結し、また蕨岡と矢島も順逆お互いの法式を相犯さないと確認した。しかし元禄14年(1701年)山頂社殿建替えの話が上がると、矢島は逆峰側で建替えるのが至当であると、本山である三宝院(さんぼういん)に総代3名を送って陳訴した。これに対し三宝院は順逆両方で申し合わせのうえ相勤めよとの和解書を蕨岡へ出したが、これまで一山を取り仕切り、山頂社殿を建替えてきた蕨岡はこれを不服として三宝院へ訴状を出した。その後、順逆双方から書類を出し、同年11月に三宝院鳳閣寺(ほうかくじ)より次の裁断が下された。
1. 山頂社殿を順逆宗徒が交互に造営する理由は見当たらないので、これまで通り順峰側が建替えること。
2. 順峰が鳥海山龍頭寺(りゅうとうじ)の寺号を最近名乗り始めたとのことであるが、順峰側では古来より名乗っている寺号とのことであった、よって逆峰側が更なる証拠を見つけてから申し出ること。
3. 山頂社殿の天和(てんな/てんわ)2年(1682年)の棟札を遊佐郡から飽海郡へ書き換えているのは、幕府の命に従った為である。
4. 嶺境は行政の領分なので当方では裁断できない。後日判明した際に双方より申し立てること。それまでは従来の通りにすること。
5. 鳥海山は古来より順逆両部の山であるので、今後も順逆申し合わせのうえ古例のごとく勤仕すること。
この裁断により一旦は息を潜めたかに見えた順逆の論争であるが、山頂社殿建替後の遷宮式において矢島の群衆が棟札を奪い取る事件が発生し、再燃することとなる。