安房神社 歴史 概史
文献では、前述のように『古語拾遺』・『先代旧事本紀』・『高橋氏文』逸文などにそれぞれ記述が見える。また『新抄格勅符抄』(しんしょうきゃくちょくふしょう)大同元年(806年)牒では、「安房神」には神戸(かんべ、じんこ)としてすでに94戸が充てられていたが、当時さらに10戸が加えられたと見える。これは東国随一の鹿島神(茨城県鹿嶋市の鹿島神宮)の105戸に次ぐ規模になる。
国史では、承和3年(836年)に「安房大神」の神階が無位から従五位下に昇叙された旨のほか、続けて承和9年(842年)に正五位下に昇叙され、承和14年(847年)には「安房国大神」の祭祀料に正税の穀100斛(こく)が加えられた旨の記事が見える。その後も、神階は仁寿2年(852年)には従三位、天安3年(859年)には正三位勲八等にまでそれぞれ昇叙された。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では安房国安房郡に「安房坐神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。『延喜式』臨時祭式では「安房神社」として記載される。なお、神名帳に見える下野国寒川郡の式内社「阿房神社」(あわじんじゃ。栃木県小山市の安房神社に比定)も関連社とする説がある。
中世以降については確かな史料がなく詳らかでないが、近世成立の『安房忌部家系』に伝承が記されている。これによれば、治承4年(1180年)には源頼朝が当社に祈祷を命じ、その後 神田8町を寄進したという。そして文治2年(1186年)には、安房判官代高重(あわ ほうがんだい たかしげ)の訴えにより社殿の造営修復を厳命し、以後は在庁の沙汰で造営するよう定めたという。建久6年(1195年)には、在庁による押領のあった上総国千田荘の神領において、鎌倉幕府からその停止を命じられたという。また寛喜(かんぎ、かんき)元年(1229年)の記事を初見として、中世以降は安房国で一宮に位置づけられたとされる。
室町時代には、明応8年(1499年)6月の大地震で社殿全てが倒壊し、文亀3年(1503年)に前在庁の安西氏の推挙で領主の里見義成(さとみ よししげ)が本殿・瑞垣を造営し、天文5年(1536年)には改めて里見義弘(さとみ よしひろ)が造営したという。その後も文禄-慶長年間(1592年-1615年)に里見氏によって社殿の修造が行われている。
江戸時代に入り、元和2年(1616年)には江戸幕府からの社領寄進があった。また、寛永13年(1637年)には3代将軍徳川家光から「安房郡正一位大神宮領」として朱印地30石余が安堵された。
明治維新後、明治4年(1871年)5月には近代社格制度において最高位の官幣大社に列した。戦後は神社本庁の別表神社に列した。また平成21年(2009年)には本殿・拝殿の大修造が行われている。