安房神社 特徴

 

安房神社は、古代に神郡しんぐん/かみのこおり。一郡全体を特定神社の所領・神域と定めた郡)を持った数少ない神社の1つとして知られる。『令集解(りょうのしゅうげ)や『延喜式』によると、当時全国には神郡として安房国安房郡のほか伊勢国度会郡(わたらいぐん)・伊勢国多気郡(たきぐん)下総国香取郡(かとりぐん)常陸国鹿島郡(かしまぐん)・出雲国意宇郡(おうぐん)紀伊国名草郡(なぐさぐん)筑前国宗像郡(むなかたぐん)の計8郡があり、これらは「八神郡」(はっしんぐん)と総称された。

 

 

安房神郡に関する記事としては、文武天皇4年(700年)に上総国司が申請して安房郡の大少領職に父子兄弟の連任が許された旨のほか、養老7年(723年)の太政官処分における郡司職の三親等以上の連任許可の記事が見え、他の神郡同様に郡司任用で特別措置が取られている。この郡司職および安房神社祭祀を担ったのは、出雲国造紀伊国造(紀国造)の例のように安房国造(阿波国造)一族であったと見られている。この国造一族は、前述のように膳大伴部を在地で統率する大伴直(おおとものあたい。膳大伴直(かしわでのおおとものあたい)、のち伴直(とものあたい))氏族とされ、この国造による神郡統括に見られるように、安房国・安房神は朝廷から「御食都国」(みけつくに)・「御食都神」(みけつかみ)と認識されて重要視された。

 

 

文献では『先代旧事本紀』で「大伴直大瀧」が初めて国造に任じられたとする伝説が見えるが、この大伴直(伴直)一族が国造を担ったことは嘉祥3年(850年)記事の「安房国々造正八位上伴直千福麻呂」の記載からも裏付けられる。そのほか弘仁2年(811年)記事に見える安房国人の「大伴直勝麻呂(大伴登美宿禰勝麻呂)」、また承和3年(836年)記事に見える安房郡人の「伴直家主」も安房国造一族と推測される。『洞院家記』(とういんけき)や『北山抄』によれば、この安房国造は10世紀頃までの継続が確認される。

 

 

なお、平安時代中期の『和名抄(わみょうしょう)では安房国安房郡に神戸郷・神余郷(かなまりごう)の記載が見えるが、これらは安房郡が神郡であったことに関わると見られる。