安房神社 祭神 古語拾遺・先代旧事本紀の記述 ②

 

以上の一方、古代史料では安房郡司・安房神社神職など安房地方の在地関連人物で忌部の存在は知られず、むしろ安房地方に濃密に分布したのは後述する膳大伴部(かしわでのおおともべ)であったことが知られる。そのため『古語拾遺』の説話の史実性は否定の向きが強く、『古語拾遺』自体が中臣氏との勢力争いの中で忌部氏の正統性と格差是正の目的で編纂されたものであるため、安房への東遷説話は造作で東国(特に常総地方)の中臣氏勢力と対抗する目的があったと指摘する説がある。また、数少ない安房関係人物として天平2年(730年)の「安房国義倉帳(あわのくにぎそうちょう)に安房国司の目と見える忌部宿禰登理万里(忌部鳥麻呂(いんべ  とりまろ)か:中央から赴任した可能性が高い)の存在から関連づけたと推測する説や、安房神社の祭祀・神戸に忌部氏の関与を仮定すればこれに阿波忌部が結びつけられたと推測する説、そのほか古くから黒潮を通じて人々の交流があったこと(黒潮文化圏)が説話成立の背景にあると見る説などもある。