砥鹿神社 歴史 概史

 

国史では、「砥鹿神」(とがのかみ)神階嘉祥3年(850年)に従五位下、仁寿元年(851年)に従五位上、貞観6年(864年)に正五位下、貞観12年(870年)に正五位上、貞観18年(876年)に従四位上に昇叙されたと見える。嘉祥3年条以外はいずれの記事でも知立神(愛知県知立市知立神社(ちりゅうじんじゃ/ちりふじんじゃ)三河国二宮)と併記され、六国史終了時点の神階は三河国内では知立神とともに最高位になる。

 

 

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では河国宝飯郡(ほいぐん)に「砥鹿神社」と記載され、式内社に列している。また、『三河国内神名帳』では「正一位 砥鹿大明神」と記載されている。

 

 

中世以降は、三河国一宮として尊崇された(一宮としての文献上初見は文永(ぶんえい)元年(1264年)の訴状)。

 

 

戦国時代永禄年間には、付近に徳川家康の命を受けた本多信俊(ほんだ のぶとし)が一宮砦を構えて今川軍に包囲されたが、家康が寡勢で救援に駆けつけて多勢の今川軍を蹴散らし、砥鹿神社に宿陣したとも伝わる。

 

 

明治維新後、明治4年(1871年)には近代社格制度において国幣小社に列した。戦後は神社本庁別表神社に列している。