砥鹿神社 歴史 創建
社記(天正2年(1574年)の「三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起」)では、大宝年間(701年-704年)に文武(もんむ)天皇の時に天皇の病を鎮めるための勅使として草鹿砥公宣(くさかどのきんのぶ)が派遣され、本茂山(ほのしげやま。本宮山(ほんぐうさん))の神を迎えて里宮が創建されたとする。
現在も砥鹿神社奥宮が鎮座する本宮山は東三河地方では中心的な孤峰であり、山中には磐座、山麓には古墳群の分布が知られることから、古代から信仰対象であったと考えられている。また上記伝承に見える草鹿砥氏は砥鹿神社の旧社家で、同氏は穂別の後裔と伝えることから、かつて当地一帯を治めたとされる穂国造(ほのくにのみやつこ/ほのこくぞう)により奉斎されたと推測する説がある。