盟神探湯 日本書紀の記録

 

応神天皇9年4月条に、武内宿禰が弟の甘見内宿禰(うましうちのすくね)讒言(ざんげん)を受けて殺されそうになり、武内宿禰が潔白を主張したので、天皇は2人に礒城川(しきがわ)で盟神探湯をさせたとの記事がある。允恭(いんぎょう)天皇4年9月条には、上下の秩序が乱れて、むかしの姓(かばね)を失ったり、わざと高い氏(うじ)を名乗る者も出てきた。それを正すために甘樫丘(あまかしのおか)で盟神探湯を行ったという記事がある。各自が沐浴斎戒し、木綿の襷(たすき)をつけて探湯を行い、正しく姓を名乗っている者は何ともなく、詐りの姓を名乗っている者は皆火傷をしたので、後に続く者の中で詐っている者は恐れて先に進めなかったので、正邪がすぐにわかったとある。この条の註記には、「泥を釜に入れて煮沸し、手を入れて泥を探る」という具体的な手順が書かれている。

 

 

継体天皇24年9月条には、倭国から任那に派遣された近江臣毛野(おうみのおみ けぬ)の下に任那(みまな)人と倭人の間に子供の帰属を巡る争いが発生した際、裁定が出来なかった毛野が「誓湯」すなわち盟神探湯によって判断を下そうとしたところ、火傷を負って死ぬ者が多かったとされる。この話は近江臣毛野の失政と暴虐ぶりを示す話とされている。

 

 

 

 

※讒言(ざんげん)

事実を曲げたり、ありもしない事柄 を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと