武渟川別 記録
『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では武渟川別を東海に派遣するとあり、同書では北陸に派遣された大彦命(おおひこのみこと)、西道(にしのみち)に派遣された吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波に派遣された丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)とともに「四道将軍」(しどうしょうぐん)と総称されている。その後、将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告した。
また同書崇神天皇60年7月14日条によると、天皇の命により武渟川別は吉備津彦と共に出雲振根(いずものふるね)を誅殺している。垂仁天皇25年2月8日条では、彦国葺命(ひこくにふくのみこと。和珥(わに)臣祖)・大鹿島(おおかしま。中臣連祖)・十千根(とおちね/とちね。物部連祖)・武日(たけひ。大伴(おおとも)連祖)らとともに「大夫(まえつきみ)」の1人に数えられており、天皇から神祇祭祀のことを命じられている。
一方『古事記』では、四道将軍としての4人の派遣ではないが、やはり崇神天皇の時に大毘古命(大彦命)は高志道に、建沼河別命は東方十二道に派遣されたとする。そして大毘古命と建沼河別命が出会った地が「相津」(あいづ。現・福島県会津)と名付けられた、と地名起源説話を伝える。