大彦命 記録 文献
『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では大彦命を北陸に派遣するとあり、同書では東海に派遣される武渟川別(たけぬなかわわけ)、西道に派遣される吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波に派遣される丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)とともに「四道将軍」(しどうしょうぐん)と総称されている。
同書崇神天皇9月27日条では、大彦命はその途中の和珥坂(または山背の平坂)で不吉な歌を詠う少女に会ったため、引き返して天皇にこのことを報告した。そして倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ。孝霊天皇皇女;大彦命のおば)の占いによって武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと。大彦命の異母兄弟)とその妻の吾田媛(あたひめ)の謀反が発覚する。果たして実際に謀反が起こると、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと。吉備津彦命)が吾田媛を、大彦命と彦国葺命(ひこくにふくのみこと。和珥氏(わにうじ)祖)が共に武埴安彦を討ち鎮圧した。その後、四道将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告したという。
『古事記』では、建波邇安王(たけはにやすひこのみこと。武埴安彦命)の鎮圧においては同様の説話を記す。一方、四道将軍としての4人の派遣ではないが、やはり崇神天皇の時に大毘古命(大彦命)は高志道(こしのみち)に、建沼河別命は東方十二道に派遣されたとする。そして大毘古命と建沼河別命が出会った地が「相津」(あいづ。現・福島県会津)と名付けられた、と地名起源説話を伝える。
なお『新撰姓氏録』河内国皇別難波忌寸条では、崇神天皇の時に大彦命が蝦夷平定に向かった際、大彦命は兎田墨坂(うだのすみさか:現・奈良県 宇陀市 榛原萩原(はいばらはぎはら))で嬰児を拾って育て、「得彦(えひこ)宿禰」と名付けたと伝える。