橋姫 宇治の橋姫 饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)

 

かつては伊勢神宮の五十鈴川(いすずがわ)には橋はかかっておらず、人々は流れの緩やかな川を禊しながら渡っていた、あるいは渡るための石が並べられて、そこを渡る時代もあったといわれる。しかし、それでは大雨の増水のために渡れなくなることもあり、やがて橋がかけられるようになった。それが文献で確認できる初出が12世紀ごろである。

 

 

饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)の創建もほぼ宇治橋が架けられるようになった平安時代より後、鎌倉か室町時代と考えられる。文献にはじめて記されるのは室町時代になってからで、もとは大橋橋姫御前社(おおはしはしひめごぜんしゃ)、と呼ばれていた。饗土はそのあたりの地名である。「饗土」とは、疫神や悪霊を防ぐ道饗の祭をおこなう場所を意味する。ただし、京都の宇治のように橋の上に祀られることはなく、丑の刻参りやおどろおどろしい女性の怨念話、妖怪話とは全く縁がない。かつての鎮座地は、よく記念撮影をするところ、つまり宇治橋のすぐ手前、鳥居の立つ地点から松の植え込みのある辺りであった。以前は、松ではなく二株の桜の木であった。今では、宇治橋から約200メートルも離れたはずれにあり、その存在すらあまり知られていない。現在の宇治橋の形状に似た大橋が落成したのは、『河崎氏年代記』が記す将軍足利義教が寄進のうえ参宮した永享(えいきょう)6年(1435年)とされる。 荒木田守良(あらきだ もりよし)は『神宮典略』において、山城国(京都府)宇治橋の橋姫明神に倣い寛正(かんしょう)7年(1467年)三月の将軍足利義教参宮に併せ、饗土の地に橋姫神社が創建されたと解説している。従って、五十鈴川の橋姫も京都宇治と同じ瀬織津姫を祀っていることになる。 橋姫が祀られているのは他に、滋賀県、瀬田の唐橋と大阪の長柄橋(神社は現存せず)がある。有名な徳川家はこの橋姫を祖とし、その名を冠した一橋家を産み落としたとする説がある。