平野神社 境内
本殿は4殿2棟からなり、江戸時代前期の寛永年間(1624年-1644年)の西洞院時慶(にしのとういん ときよし)による再建である。うち第一・第二殿は寛永3年(1626年)の造営で、第三・第四殿は寛永9年(1632年)の造営。春日造檜皮葺の4殿はいずれも東面し、それぞれ今木神(第一殿)、久度神(第二殿)、古開神(第三殿)、比売神(第四殿)が祀られている。第一殿と第二殿、第三殿と第四殿はそれぞれ空殿を挟んで連結する形式を採っており、この平野神社独特の形式は「比翼春日造(ひよくかすがづくり)」、または社名から「平野造(ひらのづくり)」と称される。これら本殿2棟は、国の重要文化財に指定されている。
また本殿2棟に並んで南側には摂社・縣神社(あがたじんじゃ)1棟が鎮座し、これら本殿・縣神社3棟は玉垣で囲まれ、祝詞舎・中門を共有する。その中門は社記によると承応(じょうおう)2年(1653年)頃の造営で、昭和12年(1937年)に改造を受けている。桁行四間・梁行一間、唐破風造(からはふづくり)で、屋根は檜皮葺。唐薬医門の後方に後世の改造で柱間三間分が追加された形式になる。この中門の左右には回廊が接続している。これらの社殿のうち、縣神社・中門は京都府登録文化財に登録されている。
中門前に建てられている拝殿は、社記によると江戸時代前期の慶安(けいあん)3年(1650年)に東福門院(とうふくもんいん。徳川和子(とくがわ かずこ/まさこ))によって寄進されたものといい、「接木の拝殿」(つぎきのはいでん)の呼称で知られる。桁行二間・梁行一間、入母屋造で、屋根は檜皮葺。四方を吹き放す舞殿形式である。拝殿内部に飾られた「三十六歌仙絵」は、平松時量の寄進で、寛文年間(1661年-1672年)関白近衛基熙(このえ もとひろ)の書、海北友雪(かいほう ゆうせつ)の画である。この拝殿は京都府指定文化財に指定されている。
また南門は、社記によると慶安4年(1651年)に御所の旧門を下賜されたものという。同年の移築由緒を有する門としては仁和寺(にんなじ)本坊表門が知られるが、同門と由来が同じとすると、平野神社南門も元は元和(げんな)5年(1619年)頃に内裏の女御御里御殿(にょうごおさとごでん)の門として建てられたと推測される。形式は薬医門(やくいもん)、切妻造で、屋根は桟瓦葺(さんがわらぶき)。太い木割の雄大な意匠である。この門は古くは現在の大鳥居の位置(境内東側)にあったが、昭和18年(1943年)に南門として移築されたといい、現在は京都府指定文化財に指定されている。
そのほか、境内に広がる桜苑は花山(かざん)天皇が寛和(かんな)元年(985年)に手植えして以来の桜の名所とされ、江戸時代には「平野の夜桜」として知られた。現在も春には桜祭が行われる。