廣瀬大社 歴史 概史

 

鎮座地は、高田川(たかだがわ)と一緒になった曽我川(そががわ)大和川(やまとがわ)飛鳥川(あすかがわ)など奈良盆地内を流れる河川のほとんどが合流する地点であり、このことから水神を祭る。社伝では、崇神天皇9年、広瀬の河合の里長の廣瀬臣藤時(ひろせのおみ ふじとき)に託宣があり、水足池(みずたるのいけ)と呼ばれる沼地が一夜で陸地に変化しタチバナが数多く生えたことが天皇に伝わり、その地に大御膳神(おおみけつかみ)として社殿を建てて祀ったのに始まるとしている。龍田の風神・広瀬の水神として並び称された。『日本書紀天武天皇4年(675年)4月10日条には風神を龍田立野(たちの)に、大忌神を広瀬河曲(かわら)に祀ったとの記述があり、これが4月・7月に行われる廣瀬大忌祭の起源とされている。

 

 

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では大和国広瀬郡(ひろせぐん)に「広瀬坐和加宇加乃売命神社(ひろせにいます わかうかめのみことじんじゃ。廣瀬坐和加宇加乃売命神社) 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭新嘗祭幣帛に預かった旨が記載されている。永保(えいほう/えいほ)元年(1081年)に最高位の正一位神階を受けている。後の二十二社の一つともなった。

 

 

明治4年、官幣大社に列格した。第二次大戦以降、廣瀬大社と称するようになった。