北海道神宮 歴史 構想
江戸時代から松浦武四郎(まつうら たけしろう)による石狩大社(いしかりたいしゃ)の構想などがあり、蝦夷地・石狩に大社を建てる構想は早くからあった。
函館八幡宮(はこだてはちまんぐう)の宮司・菊池重賢(きくち しげかた)は、箱館八幡宮の末社として札幌に石狩鎮守八幡宮を建立する案を持っていた。この案は神祇管領の吉田家により承認されていたが、開拓使の設立によって実現はしなかった。後に菊池重賢は北海道神宮(当時は札幌神社)の事実上の初代宮司となった。
開拓使大主典(判官)の相良正勝(さがら まさかつ)は、北海道に置かれた11国のうち、札幌に一ノ宮を建て、その他の10国にもそれぞれ一ノ宮を建てて札幌の一ノ宮の下に置くという体系を提言したが、採用されなかった。
後述する島義勇(しま よしたけ)は、開拓三神ではなく、当初は大名持神(大国主)、少彦名に加えて、飛鳥時代に蝦夷討伐を行った阿倍比羅夫(あべ の ひらふ)を合わせ、三神として祭祀する案を出したが採用されなかった。