赤間神宮 歴史

 

貞観元年(859年)に阿弥陀寺として開闢。

 

 

文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は現場付近では発見できなかったが、赤間関(下関)に建久2年(1191年)、勅命により御影堂が建立され、建礼門院(けんれいもんいん。平徳子(たいらの とくこ/とくし/のりこ)ゆかりの尼を奉仕させた。以後、勅願寺として崇敬を受ける。

 

 

明治神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。また、歴代天皇陵の治定の終了後、安徳天皇陵は多くの伝承地の中からこの安徳天皇社の境内が明治22年(1889年7月25日、「擬陵」(ぎりょう)として公式に治定された。天皇社は明治8年(1875年10月7日赤間宮に改称し、官幣中社に列格した。昭和15年(1940年8月1日、官幣大社に昇格し赤間神宮に改称した。

 

 

第二次大戦により社殿を焼失し、昭和40年(1965年)4月に新社殿が竣工した。

 

 

昭和60年(1985年)、源平八百年を期に全国平家会が設立され、石川県輪島市にある平時忠(たいらの ときただ)の子孫「時国家(ときくにけ)に御分霊が親授された。その際に邸内社が建立され「能登安徳天皇社」の称号が授与された。