武内宿禰 記録 その他
『因幡国風土記』逸文(古風土記逸文としては鎌倉時代を遡り得ない参考条文)によると、仁徳天皇55年3月に武内宿禰は360余歳にして因幡国に下向し、亀金(かめがね)に双履を残して行方知らずとなったという。同文では続けて、因幡国法美郡(ほうみぐん)の宇倍山山麓には武内宿禰の霊を祀る社(鳥取県鳥取市の宇部神社(うべじんじゃ))があるが、武内宿禰は東夷を討った後この宇倍山に入って行方知らずになったのだと伝える。
そのほか『公卿補任』(くぎょうぶにん)では薨年未詳で295歳にて死去(一説として仁徳天皇55年に年齢未詳で死去)、『水鏡』(みずかがみ)では武内宿禰は仁徳天皇55年に280歳で死去、『帝王編年記』では仁徳天皇78年に年齢未詳(一説として312歳)で死去したといい、他にも諸伝説がある。なお、そのうち『帝王編年記』では、死去の地として甲斐国説、美濃国不破山(ふわさん)説、大和国葛下郡の室破賀(むろはか)墓説(奈良県御所市の室宮山古墳(むろみややまこふん)か)を挙げる。