武内宿禰 記録 日本書紀 

 

 

神功皇后

o 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇9年3月1日条 

 

神功皇后は斎宮に入り、自ら神主となって仲哀天皇に祟った神の名を知ろうとしたが、その際に武内宿禰は琴を弾くことを命じられた。

 

 

o 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇9年4月3日条 

 

神功皇后が神田に儺河(なかがわ。福岡平野を流れる那珂川(なかがわ))の水を引きたいと思い、溝を掘ったが大岩にあたった。武内宿禰が皇后に召されて剣・鏡を捧げ神祇に祈ると、溝は通じた。

 

 

o 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇9年12月14日条、神功皇后摂政元年3月5日条 

 

仲哀天皇の崩御を聞いて反乱を起こした麛坂皇子(かごさかのみこ)忍熊皇子兄弟に対し、武内宿禰は皇子(のちの応神天皇)を抱いて南海に出て紀伊水門に至る。そして建振熊命たけふるくまのみこと。和珥(わに)臣遠祖)とともに数万の軍を率い、山背(やましろ)、菟道(うじ。宇治)を経て、逢坂(おうさか。京都府滋賀県境の逢坂山(おうさかやま))にて忍熊皇子軍を破った。

 

 

o 神功皇后摂政13年2月8日条、同13年2月17日条 

 

皇后の命で太子を伴って角鹿(つぬが)の笥飯大神(けひおおかみ。福井県敦賀市氣比神宮)を拝し、帰還後に開かれた宴では太子に代わって皇后に返歌した。

 

 

o 神功皇后摂政47年4月条 

 

新羅と百済とで貢物の問題が起こり、皇后が誰を百済に遣わしたら良いか天神に問うたところ、天神は武内宿禰をして議を行わしめ、千熊長彦(ちくまながひこ)を使者とするよう答えた。