氣比神宮 摂社 角鹿神社(つぬがじんじゃ)

 

o 祭神:

都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)、

合祀に松尾大神(まつおおおかみ)

 

o 社格:

式内社「角鹿神社」、越前国内神名帳「正四位 敦賀神」

 

o 例祭:

5月初卯日

 

 

 

「つぬがじんじゃ」。境内東側の裏参道に鎮座する。『気比宮社記』や「気比宮古図」では「政所神(まんどころのかみ)」と見える。また、正安(しょうあん)2年(1300年)まで東口が境内表口であったことにより、別に「門神かどのかみ)」とも称されていた。

 

 

祭神の都怒我阿羅斯等は、『日本書紀』において垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(おおからこく。任那(みまな/にんな)国)王子で、同書では笥飯浦に至ったと見える。神宮の伝承では、その後天皇は阿羅斯等に当地の統治を任じたといい、この角鹿神社はその政所跡に阿羅斯等を祀ったことに始まるとして、「敦賀(つるが)」の地名は当地を「角鹿(つぬが)」と称したことに始まるとしている。

 

 

角鹿神社の祭神を都怒我阿羅斯等とする説は諸文献に記されているが、一方で祭神を角鹿国造祖の建功狭日命(たけいさひのみこと)とする説もある。建功狭日命は『先代旧事本紀』に角鹿国造として見える人物で、江戸時代末期まで角鹿神社の社家であった島家が角鹿氏後裔を称したことからも、角鹿氏祖と推測される建功狭日命説が有力視されている。またこれとは別に、この角鹿神社は古くからの敦賀の地主神であったとして、イザサワケ並びに応神天皇が主神として本宮に祀られるとともに、その客神の地位に位置づけられたと見る説もある。なお、松尾大神は天保10年(1839年)の合祀とされる。

 

 

明治10年(1877年)に神宮摂社の第一に定められた。社殿は流造銅板葺。嘉永(かえい)4年(1851年)の改築によるもので、神宮の境内社では唯一戦災を免れている。