氣比神宮 歴史 社領
六国史時代における社領の記録は次の通り。
· 持統天皇6年(692年)9月26日
20戸増封
(『日本書紀』)
- 表記は「笥飯神」。
· 天平(てんぴょう)3年(731年)12月10日
従三位料として200戸
(『新抄格勅符抄』)
- 表記は「気比神」。
· 天平神護(てんぴょうじんご)元年(765年)9月7日
44戸(計244戸)
(『新抄格勅符抄』)
- 表記は「気比神」。
上記のうち持統天皇6年の記事は「増封」であるため、これに先立ってすでに封戸があったとされる。また244戸という神封(じんぷ)は、全国でも屈指の数になる。その後、『日本三代実録』によれば元慶(がんぎょう/げんけい)8年(884年)に神宮の封租穀は神庫に納めて祭祀費にあてられるともに、神戸の百姓の国役への充当が停止されている。
平安時代末期以降には社領が荘園化し、鳥羽院を本家として皇室領に入り、美福門院・八条院・春華門院・順徳院・後高倉院・安嘉門院・室町院・亀山院・後宇多院・後醍醐天皇へと大覚寺統に伝えられた。また、律令制の崩壊とともに先の封戸も荘園化したとされる。それらの荘園領は建暦(けんりゃく)2年(1212年)注進の目録によって知られ、同文によると社領は敦賀郡を中心とする越前国に加え、敦賀港・三国港の要港、越中・越後までの一部にまで及んでいた。作田は257町余で所当米は1,700石余、さらに請加米を加えると2,111石であった。そのうち本家分は702石余、領家分は292石余、大宮司(預所)分は177石余である。前述のようにこれら荘園の本家は皇室であったが、領家は九条良輔(くじょう よしすけ。九条兼実(くじょう かねざね)の子)の知行に始まって延暦寺属の青蓮院(しょうれんいん)に伝えられた。
応仁の乱の後は、武家による侵略を受けながら朝倉氏滅亡までは所々の社領を有したが、朝倉氏の滅亡後に衰退した。江戸時代の社領は100石であった。