氣比神宮 概史 中世から近世

 

 

中世以降は越前国の一宮に位置づけられ、「北陸道総鎮守」とも称されたという。古代に続いて中世も広大な社領を有しており、その土地は越前を中心として遠く越中・越後・佐渡にまで及んでいた。南北朝時代の戦乱では、宮司の気比氏治(けひ うじはる)は南朝方につき金ヶ崎城(かねがさきじょう/かながさきじょう。敦賀城)を築いて奮戦したが、北朝方に敗れ一門は討ち死した。この敗死により神宮の社領も減じられたが、それでもなお24万石を所領したと伝える。神宮は中世を通じて社殿焼失が多く、史料には再建を示す記事が多く見られる。

 

 

戦国時代には、社家は戦国大名朝倉氏の下に組み込まれた。そのため、織田信長の侵攻によって社殿のほとんどを焼失、朝倉氏滅亡とともに社領も没収されて社勢は著しく衰退した。

 

 

江戸時代に入ると慶長8年(1603年)に結城秀康から100石が寄進され、慶長9年(1604年)には社殿造営がなされて再興が果たされた。その後は、徳川家光から秀忠の病気平癒祈願料として50石が寄進されたほか、大野城主の松平但馬守などからの奉幣も受けている。しかしながら、かつての繁栄は見られなくなったという。