氣比神宮 概史 古代
国史において気比神が再び現れるのは持統天皇6年(692年)で、その記事では越前の国司が角鹿(つぬが)郡の浜で獲った白蛾を献上したため、20戸の神封(じんぷ。神社に寄進された封戸(ふこ))が増封されたと記されている。霊亀(れいき)元年(715年)には境内に神宮寺(気比神宮寺)が設けられたというが、これは文献上で全国最古の神宮寺成立になる。また『新抄格勅符抄』(しんしょうきゃくちょくふしょう)によれば、天平3年(731年)に従三位料として200戸の神封があり、天平神護(てんぴょうじんご)元年(765年)には神封は244戸に及んだ。同記事では神階として「従三位」と記されているが、これも全国諸神の神階記事の内で最古になる。その後、神階は寛平(かんぴょう)5年(893年)までに正一位勲一等の極位に達した。このような神階昇叙には9世紀の東アジア情勢が背景にあり、この時期に海神としての本来の性格が朝廷から重要視されたと推測される。
また、神宮は朝廷鎮護の重要な一角として古くから朝廷との結びつきが強く、朝廷からの奉幣が宝亀(ほうき)元年(770年)(使者:中臣葛野連飯麻呂)、承和6年(839年)(使者:大中臣朝臣礒守・大中臣朝臣薭守)、仁寿2年(852年)、貞観元年(859年)(使者:大中臣朝臣豊雄)にあった。また、承和6年(839年)には神宮の雑務は国司預かりから神祇官直轄に移行され、朝廷との関わりを一層強めている。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では越前国敦賀郡に「気比神社七座 並名神大」と記載され、七座が名神大社に列している。また、同帳に見える「角鹿(つぬが)神社」「大神下前(おおみわしもさき)神社」「天利剣(あめのとつるぎ)神社」「天比女若御子(あまひめわかみこ)神社」「伊佐奈彦(いざなひこ)神社」の式内社5社は神宮の境内社に比定される。そのうちでも特に、天利剣・天比女若御子・天伊佐奈彦の3社は『続日本後紀』において「気比大神之御子」と見える。このことから、神宮周辺の諸社が御子神として編成されたとして、敦賀の在地社会において神宮中心の国家祭祀体系が構築されたと考えられている。